両国高校定時制生徒のあこがれは中央大学の夜学に入ることである。司法試験合格の確率が高く、授業料が安く、お茶の水の地の利も良いからであった。
3年生の時、担任の先生に話した。『私も中央大学に入りたい』と。先生は即座に『石井はダメだ。通信簿を見てみろ。寝てばかりいるから1と2ばかりじゃないか』とてんで受けつけてくれない。ガソリンスタンドの社長も大学に行くことに反対であった。私を早く会社の戦力にしたかったからである。
「中央大学入試の傾向と対策」の過去問を買い、4年生になると、授業そっちのけで一点集中の猛勉強をやった。何としても中大に入りたかった。後がない。断じて入学すると決めていた。
昭和35年、桜花爛漫の春。晴れて、あこがれの中央大学の門をくぐった。母も、会社の社長も喜んでくれた。本当にうれしかった。
大学に入学した頃、同級生によく言われた。『石井。油だらけになって働かなくてもいいんじゃないか。私の通う法律事務所に就職しないか。朝から法律の勉強ができるぞ』と。司法試験を目標にしていた私にとって、願ってもないことであった。しかし、夜学に通わせてくれる会社がなかった時に、私を拾ってくれた社長に恩があるから、と丁重に断った。だから、両国高校、中央大学の8年間、ガソリンスタンドで働き通した。
大学に入ってから、亀戸にあるガソリンスタンドの店をまかされた。10人の従業員をあずかる所長になった。20才の時である。顧客の拡大に奔走した。台風手形(210日)、お産手当て(10月10日)など長い手形を貰い売掛金の回収に悩んだ。こうして商売のこつ、会社経営の厳しさを学んだ。
「お客様は神様です」と頭の下げ方も徹底して教えられた。お陰で、「有権者は神様です」と、この時の経験が、いまみごとに生かされている。本当に感謝している。
中央大学を卒業し、昭和40年6月、公明党本部の職員に採用された。当時、日本経済は高度成長の道をつき進んでいた。東京も過密都市に変貌する中、地方から労働力として集まった人々の住宅は、決定的に不足していた。公害がばらまかれ、交通戦争、低福祉、物価高謄など都市問題が山積していた。ドロップアウトされそうな人々に、政治の光を当てるべく「大衆福祉」の旗を掲げ、公明党が結党された翌年のことである。