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▲プロフィール >> わが青春の軌跡

 東京の空が真っ赤に燃えていた。昭和20年3月10日未明のことである。疎開先の埼玉県谷塚町から見た東京大空襲の光景である。4才の時であった。

 小学校2年の夏。私の生まれた墨田区に戻ってきた。あたり一面焼野原であった。1キロ先の錦糸町駅が手に取るように見えた。友達とトンボを追っかけたり、近くの川で泳いだりしたものである。

 小学校5年の秋。父の家業の菓子製造業が倒産。その上、父は内臓を患い、寝たり起きたりの生活になってしまった。家計を助けるため中学校の授業が終わると町工場で働いた。

 中学校3年の冬--2月。母と私、妹、弟2人の5人家族を残して父は『後はよろしく頼む』と41才で亡くなった。昼の高校入学を断念し、両国高校定時制に通うことにした。夜学に行かせてくれる会社がなかったが、高校の先生の紹介で、錦糸町の学校の目の前にあるガソリンスタンドに就職した。

 夜学に行かせてくれる社長に感謝し、授業の始まる5時半ギリギリまで真っ黒になって働いた。車にガソリンを入れる。洗車をする。車の下にもぐってオイル交換をする。リヤカーに重油のドラム缶を積み鉄工所に配達をする。

学校に行く頃になると、どっと疲れがでる。だから授業中は寝てばかりいた。3時限の授業が終わり『石井、起きろ』と先生に何度起こされたことだろうか。私は中学校の時から、満足なものを食べてないから、結核の一歩手前であった。寝ないと身体がもたない。寝ることもたたかいなのだ。

 両国高校定時制生徒のあこがれは中央大学の夜学に入ることである。司法試験合格の確率が高く、授業料が安く、お茶の水の地の利も良いからであった。

 3年生の時、担任の先生に話した。『私も中央大学に入りたい』と。先生は即座に『石井はダメだ。通信簿を見てみろ。寝てばかりいるから1と2ばかりじゃないか』とてんで受けつけてくれない。ガソリンスタンドの社長も大学に行くことに反対であった。私を早く会社の戦力にしたかったからである。

 「中央大学入試の傾向と対策」の過去問を買い、4年生になると、授業そっちのけで一点集中の猛勉強をやった。何としても中大に入りたかった。後がない。断じて入学すると決めていた。

昭和35年、桜花爛漫の春。晴れて、あこがれの中央大学の門をくぐった。母も、会社の社長も喜んでくれた。本当にうれしかった。

 大学に入学した頃、同級生によく言われた。『石井。油だらけになって働かなくてもいいんじゃないか。私の通う法律事務所に就職しないか。朝から法律の勉強ができるぞ』と。司法試験を目標にしていた私にとって、願ってもないことであった。しかし、夜学に通わせてくれる会社がなかった時に、私を拾ってくれた社長に恩があるから、と丁重に断った。だから、両国高校、中央大学の8年間、ガソリンスタンドで働き通した。

 大学に入ってから、亀戸にあるガソリンスタンドの店をまかされた。10人の従業員をあずかる所長になった。20才の時である。顧客の拡大に奔走した。台風手形(210日)、お産手当て(10月10日)など長い手形を貰い売掛金の回収に悩んだ。こうして商売のこつ、会社経営の厳しさを学んだ。

 「お客様は神様です」と頭の下げ方も徹底して教えられた。お陰で、「有権者は神様です」と、この時の経験が、いまみごとに生かされている。本当に感謝している。

  中央大学を卒業し、昭和40年6月、公明党本部の職員に採用された。当時、日本経済は高度成長の道をつき進んでいた。東京も過密都市に変貌する中、地方から労働力として集まった人々の住宅は、決定的に不足していた。公害がばらまかれ、交通戦争、低福祉、物価高謄など都市問題が山積していた。ドロップアウトされそうな人々に、政治の光を当てるべく「大衆福祉」の旗を掲げ、公明党が結党された翌年のことである。

 私が配属されたのは、都議会公明党事務局であった。ちょうど、都議会の議長選挙に絡む出直しの刷新都議会選挙の真っ最中のことである。初仕事は公明党の宣伝カーに乗り、遊説隊員として候補者の応援であった。東京の広さに驚いた。

都議会選挙の結果は、社会党が45議席で第1党に躍進した。自民党は69議席から38議席に激減し、第2党に転落した。

この年の、2年前、昭和38年の都議選で3議席から17議席に躍進し、都議会リコール解散のけん引力となった公明党は、さらに議席を伸ばし23議席となった。

第1党の社会党も第2党の自民党も過半数に届かず、公明党が都議会のキャスティングボードを握ることになる。国に先駆け、連合時代の幕開けである。混迷の都議会三国志の始まりでもあった。

失礼な言い方で申し訳ないが、抵抗を党是とする社会党が、ある日突然第1党になり、長年、都議会の過半数を独占してきた自民党がその下位についたのだから都議会はまとまるわけがない。

水道料金、国保料金値上げ問題や今日の臨海開発に匹敵する多摩ニュータウン開発問題等をめぐり、定例会が始まると徹夜、徹夜の連続。2泊3日、3泊4日はざらであった。議場で乱闘、格闘騒ぎは日常茶飯事であった。

公明党は自民党、社会党の間に入り主導権を駆使し、都政の改革、外郭団体問題、福祉、住宅等で着実に成果をあげていった。第一党の社会党より、むしろ第2党の自民党と連携することの方が多かった。2、3位連合、自公中軸路線の始まりであった。

この時私は24才。頻繁に党控室を訪れる来客の応対、お茶くみ、陳情の受付、電話の対応、調査活動の段取り、原稿の下書き、各局への使い走りに飛びまわった。

 徹夜議会の時は、そごうデパートに、夕飯の買い出しに出る。23人分のサンマを焼いた。煙が廊下を伝わり、本会議場まで立ち込めてしまい大騒ぎになった。大きな鉄鍋でうどんをゆで、質問取りに来た課長、係長にもふるまい喜ばれた。まさに梁山泊そのものであった。

「調査なくして発言なし」------公明党のモットーである。定例会が始まると代表質問、一般質問担当のプロジェクトチームを編成し、議員全員で調査活動に出かけた。住宅や福祉施設の総点検等、東京中をかけまわった。具体的データと事実をつかみ、本会議で臨場感のある質問が展開された。

「門前の小憎、ならわぬ経を読む」。私は喧騒の都議会の舞台裏で、身体で地方自治を学ぶことができた。原稿は足で書けと教えられた。都議会議員になって、酸性雨調査や信用組合問題で党の伝統を実践している。

都議会事務局に3年間勤務したあと、党本都に異動となる。宣伝局、書記局広報部と一貫して対外折衝窓口を担当した。16年間の党職員生活をあとに昭和56年・都議会議員となった。

21世紀を目前にして、戦後50年間、機能してきた中央集権の弊害が噴出している。厚生省汚職、住専問題、全国の自治体に拡散している食料費問題等である。

キーワードは地方分権である。今こそ東京が全ての地方自治体と連携し、地方から国を包囲し分権を迫る時ではないだろうか。そうしなければ、日本は世界の孤児になってしまう。

常に国政の先導役を果してきた都議会の役割は重要である。今再び東京改革に立ち上がり、さらに、国の構造改革の大目付役にならなければならない。青春時代に蓄積した微力を捧げたいと決意している。

 

「都政研究」1996年1月号より

 
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